当時の温泉場の様子
元和三年(1617)
初代小諸領主・仙谷秀久の息子、2代目小諸領主・仙石忠政公の愛娘が病に襲われ、医薬が効かなく苦悩の日々を送っていた。 ある日、この霊泉に目が向けられ、薬師に祈願を凝らして入浴すると、不思議にも日ならずして平癒した。仙石家では大いに喜び、湯主・荻原家に対して「効験多いこの霊泉を、世に知らせざるは惜しきことなり」と、青銅五十貫文を賜り、薬師堂ならびに湯小屋を建てるよう言い渡した。 湯主は、入湯者一人につき三文の入湯料を取り、うち一文を湯運上として上納することが定められた。即ち、これが菱野温泉(薬師館)の営業開始の第一歩である。
参考出典:小諸市教育委員会発行 小諸市誌近現代篇より
参考出典:昭和12年北佐久郡大里村役場 大里村々勢一覧
建久二年(1191)
『鳥羽院の稲室龍洞と云う馬宰士が戦傷を負い、諸国を巡遊するうち、此の地に来て観音洞に籠った。ある日龍洞の枕辺に如来が現われ「今吾は汝の正しき心と厚き信心を知る。依って汝に其の傷を癒するの道を授けん」と霊泉の場所を教えられ、龍洞が発見した』と伝えられてる。
鎌倉時代からつづく
歴史ある温泉郷
開泉約800年。時は1191年源頼朝が鎌倉幕府を開く1年前に今の薬師館の源泉が発見されたと伝えられています。
その後江戸時代に湯宿として開業し、昭和に入ると『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』などの童謡の作詞を手がけた詩人・野口雨情なども菱野温泉に訪れたといわれています。
この歴史ある温泉「菱野温泉郷」の歴史を振り返ってみたいと思います。
参考出典:小諸市教育委員会発行 小諸市誌近代篇より
文化十一年(1814)
野火により堂宇と宿が焼失してしまう。
文政三年(1820)
堂及び宿を再建する。この時宿の名を「薬師館」と改め、参拝者や湯治客に親しまれていました。また「子宝の湯」としても婦人にも人気があった。
この頃から明治初期にかけて薬師堂の秋の祭礼や農閑期の湯治客が増え、自炊、半自炊、賄付など客の希望に応じた湯治が行われていたといいます。
参考出典:小諸市教育委員会発行 小諸市誌近代篇より
明治三十三年(1900)
薬師館より2丁程下に現在の常盤館の前身となる共同浴場「松の湯」がつくられました。
昭和三年(1928)
菱野薬師の藤谷最順師はお堂の大修繕と境内の風致保存に努められました。同年常盤館は洋室を含む70の客室をもつ新館をつくり新しい浴室や娯楽施設を備えた。
参考出典:平成4年 菱野史編纂委員会著「菱野史」より抜粋(原文ママ)
野口雨情と菱野温泉
昭和八年(1923)9月
野口雨情が菱野温泉の地を訪れたのは、雨情52歳の時であった。
明治・大正・昭和、全日本民謡作家百人集の小諸市の白鳥秋声氏の自叙伝に次のように記されてます。
『秋声氏が吉祥寺の野口雨情を訪ね、小諸菱野薬師館で、小唄作詩を依頼し、三泊同宿した。』と書いてある。
雨情はその地域の古事や伝説を訪ね、郷土につながる童謡や、民謡を作詩し、その中に芸術性や品格を醸しだすようにした。これが雨情のいう「土の自然詩」なのである。その意味と内容において、菱野小唄は郷土にとって大変意義深いものであると思うのである。
◎菱野温泉 菱野小唄 野口雨情作
・薬師温泉菱野の元湯水も浴槽にヤッサイかけ流す
・山で暮らせと矢留の山のわたしや芒やヤッサイ萩じゃない
・山も谷間も緑のほのほ菱野温泉ヤッサイ夏がくる
その他十一首